道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

柞刈湯葉「人間たちの話」

ChatGPTがあるこの世界で、もはや技術書というものにどれほどの価値があるのだろうか?ということを妄想し始めて早1ヶ月が経った。相変わらず進化仕切れていない自分はまだ本を読んでいるわけだが、この問いはまだ正解がわからない。GPTは事実を断言的に正しく述べるのが苦手だとして、しかし、人間が培ってきた事実と呼んでいるようなものは一体どれほど真実なのだろう。「より多くの人が一般的に認めていること」であるならば、GPT以前の世界にも正しそうで正しくないことはいくらでもあったのだ。観測側がより簡単に観測でき、事実とは違いそうなことを事実よりも早く広めることができる世界だからこそこういった指摘があるのであり、これから事実となるであろう事柄についての「確からしさ」はより不確定になったように思う。それにもまして、厳密な正しさを必要としない事柄についてはほぼ無価値となり、パターンの提示、推察、発想のタネといったものは「ググる」までも無くなってしまったのだ。問えばいい。なので、実験結果や観測結果を述べた論文や図鑑、教科書のようなものの価値は比較的下がりにくいが、ハウツー本、ノウハウ本、啓蒙書のような明確な答えのないものについては「こんなものを呼んでどれほど意味があるんだろう」と考えてしまう癖がついてしまった。

そんな葛藤をしながらも面白く読める本はやはり小説だろうと信じてやまないのである。まだAIが書いた面白い小説に出会ってないからこう言えるだけなのだが。柞刈湯葉さんの本はこれが初めてで、横浜駅SFがどんな話かまだ知らない不勉強だが、Twitterをフォローしていたら何かのツイートに引き寄せられて買ったのだった。

タイトルになっている人間たちの話は特に好きだったし、こんな小説をAIが書けるのはいつだろうと妄想が捗る。次の文章が自分的には全く新しい考え方で興味がそそられた。

生まれながらに十分な富と優秀な頭脳があり、そして自由にも恵まれていた境平は、なんにでも望むものになることができた。そして、まさにその幸福が彼を孤独にしていた。彼が日々感じていたのは「他者」の不在だった。自身に理解できず、自信を理解しようとしない、一体化できない異質を彼は求めていた。恵まれた環境で育った少年には、そういった要素に飢えることがままあった。

優秀であるがゆえに、禅でいうところの仏陀となった、解脱した自己認識を持った人間が「他者が不在」となり「孤独」であるとはいかなることかと。全世界全人類に自己同一性を持ちつつも孤独に感じているのは、普通の感覚ではおよそありえないほど極端に同一化してしまっているということなのだろう。この問いもまた禅問答のようにすら感じる。家族、友人、同僚、地域の人、地元の人、出身国が同じ人と自分の認知の世界を広げた先に、生命みな尊いことを理解するまではわかるが、実際にはそれらは個別であると認識しているのが普通ではないだろうか。別であるからこそ尊いのである。それを原初生命が同一であるから遺伝子的にはほんのわずかな差しかないということで同一視し、その原初生命まで辿った別な生命を探そうという発想はわかるし、そこから宇宙へ興味を移す境平の精神性を読んでいるだけですごく面白い。自分を写したような、姉の息子である累(るい)がまた同一的であり対比的である自己矛盾そのものとして書かれているように感じた。

そして、そんな思想の境平がどのようにして「他人の問題を自分の問題として共感する」のか、人間を人間たらしめるのか、同じであり違うという人間らしい矛盾がテーマだったように感じた。さて、GPTには自己矛盾を自在に操れるだろうか。


読書所用時間:約4時間
執筆時間:約1時間(1600文字)
オススメ度:★★★★★