道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

「脳の科学史~フロイトから脳地図、MRIへ~」を読んだ

脳の科学史 フロイトから脳地図、MRIへ (角川SSC新書)

脳の科学史 フロイトから脳地図、MRIへ (角川SSC新書)

※この記事は盛大に本のネタバレが含まれます。読むつもりでまだ読んでいない方は、 読んでからこの記事を見た方が良いと思います。


脳についての本だと過去に これとか あれとか それってな感じで、 池谷本ばかり読んでいてバリエーションが少なかったので、脳の科学の歴史について書いてあるこちらをセレクト。 昔から歴史の教科が好きじゃなかったんだけど、 ある程度興味を持ったところで勉強していくと「あぁ、あれが!」とかアハ体験があっていい。 kindleで安かったというのもあるのだけど。

著者の小泉英明さんの文章がまた面白く、博識な人はこうも表現豊かなのだなと感心するばかりだった。 自分にはまだまだ無理だろうなぁ…

文学的な話をしたときいつも尊敬できる同期はこんなことを書いていて共感した。以下引用。

私は常々文章が上手い作家には2種類いると思っている。

1つ目は皆がつかう言葉だけつかい、シンプルなのに絶対に忘れられない文章を書く作家。例えば、太宰治や江國香織など。

そしてもう2つ目は、奇々怪々な言葉の連続でこれでもかっていうほどの言い回しオンパレードな作家。例えば三島由紀夫。

小泉さんは後者に近いけど、もう少しシンプルでわかりやすい表現の中に、 コミカルな表現を混ぜていてすごく好きだ。 厨二的思考回路の強い俺は後者が好きなんだけどね。(だからバカっぽい)

MRIとはなんなのか、どうやったら人間の断面図を撮影できるのか。そんな素朴な疑問から、 これまで脳科学がどのように発展してきたかを一緒に航海しながら教えてもらえる。そんな本でした。

一見、科学とは反対に存在していそうな、宗教や哲学についても言及されていて、 新しい知見がもてたのは本当によかった。むしろ自分がそう勘違いしていたことに気づかされた。

科学と芸術

科学は自然の自然の神秘をより深く知る営みで、そこから芽生える知恵や技術が人間の未来をより豊かなものにします。 いっぽう、芸術は作品や演奏を介した感動の共有によって、多様な文化や歴史を背負った人々が、人間としての絆を強める営みです。

自分は今まで芸術に対してこういう考え方をしていなかったのではっとした。 俺的にはそれぞれが自分の好きなことを好きなように表現する感覚だった。 考えても見れば、人間が何かを表現するというのは意味があることだし、 なにか自分の中にある感動とは言わなくても主張したいことを共有するのが本来の目的だろうと考えられる。 展示や美術館によく行く人は、自分の表現や感性の幅を広げるのが目的だと思っていたのだけど、 共感を求める旅に近いのかもしれない。

科学は「理性」、芸術は「感情」。このシナジーが感動を生む。理性的に感情的に、 人を感動させられる人間になるには、バランスが必要なのだと気づく。

人間を動かすのは感動のような感情の共感から始まる。熱いメッセージに込められた一瞬の共感。 読書もまた、そうあるようだと思う。

またマトリックス

映画「マトリックス」。自分の中でトップ10には入る名作だと思っている。 これがこの本の中でもでてきて本当に感動している。引用された数がよい論文であることを示すように、 映画の中や映画以外からも引用される数で言えば、今世紀最大なんではないのか?とも思う作品。 本当に大好きなのでちゃんとしたDVDを買うことにしよう。BDのほうが良いけどプレイヤーが無い。笑

この本ででてくるのは、現実世界と夢を人間の脳は区別できているだろうかという話から。 ゲームもよりリアルになってきているし、 視覚と聴覚以外の感覚器に対してフィードバックが鮮明に現れるとすれば、それはもはや現実ではないだろうか?

人間の脳には、夢と現実を区別する手段はないし、本によればそのような研究をしている人も居ないそうだ。 脳は外界から受け取る情報が電気信号に変わったものをただただ受け取り、 それに対するフィードバックをしているだけだ。ならば、現実と全く同じ情報を電気信号を受け取った場合、 それは夢ではなく現実になってしまう。

考えるほどのことでもないかもしれないけど、 その曖昧な境界線の中で自己を保ちながら生きていくしか無い。 こういうのを描いた作品をもっと見てみたいなあと思う。

明日目覚めたら、今生きている人生が夢オチだった。そうでないと言い切れる人はいないのだ。

ブリタニカ百科事典

全然関係ない話なのだが、この本の中で「ブリタニカ訳」と書かれている部分が一カ所だけでてきて、 ブリタニカってなんやねん!って思って調べたら面白かったという話です。

ブリタニカとは百科事典のことで、 学術的にも高い評価を持つらしい。昔から百科事典が好きな自分としては、一度は手に取って読んでみたい。 全巻英語らしいが、変える余裕があれば買ってみたい。調べていて知ったのは、 ペディアとはギリシャ語で教育という意味らしく、Encyclopaediaというのは百科事典という意味になるらしい。 アンサイクロペディアではなく、エンサイクロペディアなので注意。 第11判は20世紀初頭に作成されたもので集大成と言える作品らしい。 ケネス・クラーク卿(Sir Kenneth Clark)という人が、 『芸術の森のなかで Another Part of the Wood』(1974年)の中で第11版について書いた文がとても印象的で響いたので以下に引用。

読者は一つの記事から他の記事へと飛び跳ねる。単なる事実や日付だけでなく、各執筆者の精神の働きと個性に魅了される。 これは、情報を強く印象づけるにはわずかな偏見が必要だというディドロの伝統に沿って作られた最後の百科事典に違いない。

確かに、情報を強く印象づけるには、偏見が必要だ!そう共感できた。自分で本を読んだだけではわからなかった感動などが、 誰かの口から偏見とともに聞けると急に頭に入る経験が多々ある。そういうことだったのだと納得できた。

やりすぎはよくないけど

自分は何かを見たり体験したら人に説明するのがすごい苦手なんだけど、 それは自分にしかわからない感覚だからいってもしょうがないという諦めからくるものだった。 けど上の一文で一気に心が晴れたし、偏見をたくさん混ぜて相手に印象づけて、 相手がまた自分の偏見を混ぜ込んで広めていく。これこそ何かを動かし続ける力かもしれないと思った。

この本の中でもまた、淡々と事実を述べるというよりは、 小泉さん自身の考えが豊富に含まれながら描かれている。 その証拠に、この本の随所に「〜と私は思います」という文末が現れる。 科学や論文では決して使うことの無い主観的な感想を多く取り入れることで、 相手に印象づけようとしているのかもしれないと思った。

でも、最近バズった

www.huffingtonpost.jp

で石井洋二郎さんが述べているように、(東大のwebでリンク先が更新されてるの残念だなぁ…)

あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、 必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、 文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。

一次情報をしっかり調べて、その人が述べようとしていることをしっかりを調べる、ちゃんと伝えることも大切だ。 小泉さんは適切に調べ、本来の意味を読者の為に咀嚼してから書いているようだった。 一次メディアを作っている自分としても、身が引き締まる式辞だったのでぜひ読んでみてください。

やりたいことができない

これもまた全然関係のない話なのだが、フェリエの脳地図の節でこんな話がでてくる。 プラトンは心は脳にあるといい、弟子のアリストテレスは心は心臓にあるといいました。 この頃、宗教の力が強い世の中ではこの問題に正面から立ち向かうことができなかったそうです。

新卒として働く自分は、できるだけわからないことやおかしいと思うことは声を大にして主張する、 もしくはアホを演じて問題を投げかけるということをよくやってる。 なんだか、実力の無さから控えめになってしまうとか、自分の言葉次第で全体のやる気がなくなるとか、 宗教っぽくていやだなぁとか思ったり。恥をかいても良いからどんどん主張して、 罵声を浴びながらやってきた自分だし、これからも貫いていこうと思う。

逆にもし自分が間違っていて、後輩に意見や指摘されたときはきちんと聞き入れて、 真摯に自分やシステムの悪いところに向かい合うようにしよう。そう心に決めている。

小人が住んでいるという話

カナダの脳神経外科医、ペンフィールドの作成した脳の機能地図について書かれているところの引用。

昔からヨーロッパには、脳の中には小人が住んでいるという錬金術と連動した伝説がありました。 その小人が、脳の中で我々を操っている、この小人の名がホムンクルス。さらに、 そのホムンクルスを操っているのは誰かという話があり、笑い話のようですが、 ホムンクルスの脳の中にはまた小さなホムンクルスが住んでいて、そのまた中にもホムンクルスが住んでいてと、 連続的に入れ子構造になっているという説を唱える人もいました。

これは面白い。今ではそうでないとわかっていても、当時は本気でそう思っている人がいるんだ。 当時は小人が操っているという滑稽な説明に使っていた図が、今では機能局在の説明に最も使われるようになっている。

自分が今、周りから間違っている、そんなはずがない、バカなことをしているなと言われていることでも、 それはまだ誰も理解できていないだけで、明日には正しいことかもしれない。そう思うと、 なんだか元気がでた。

知能指数と反射神経

興奮の伝わるスピードは、神経の太さと関係しています。遅い神経というのは、 直径が細い神経がたくさんあるので、1秒あっても情報は 10 くらいしか進まない。 コンピューターのように1秒に地球7回り半というような情報伝達スピードとは全然違うのです。 電子の情報伝達というのは、原則的に光とほぼ同じスピード。 コンピューターはものすごく速く処理ができますが、神経はゆっくりとしか処理できない。 その分、並列分散処理という分業する処理が発達しました。

運動能力には神経の太さは関係ないが、反射神経はは運動に関係があり、運動競技では反射神経が重要になる競技が多い。 反射神経は神経伝達の早い神経なので太い。さらに、この神経の太さと知能指数が関係しているそうだ。

つまるところ、反射神経がいい人は知能指数が高いらしい。なので、一般に頭がいい人と呼ばれる人は、 反射神経が高い人であるのだ。

脳は並列分散処理をしているので、多くが意識下で行われているということです。

池谷本で直感と閃きの違いについて書いてあったが、直感のほうは無意識で膨大な計算をしているので、 意識的に考えていない分、言葉で説明できないがなぜか正しい答え、多くの人が共感できる答えを導くことができる。

論理的に考えられる、閃くことができるというのは計算量が少ないとも言える。 では、直感のみで東大の試験に挑んだ方が合格するのでは?!と短絡的に思いつくが、 人生の経験や膨大な情報のインプットを行っていないと、そもそも無意識にも計算できないのでダメだとすぐわかる。

結局、熟練の勘というやつは膨大な時間をゆっくりと考えることに費やした人でないと持てないのだ。 なるほど納得な瞬間だった。こつこつと頑張ってからこそが、勝負なのだ。勘違いするなかれ。

es(エス) から得た教訓

上の節では映画「es(エス)」についても書かれてあった。 昔からパッケージは見たことがあったが見ていない作品だったので、いい機会だし見てみた。

エスとはフロイトが自身の研究で使っている言葉で、無意識の中で行っている思考のことを指している。 映画エスでは、1971年に実際に行われた、スタンフォード監獄実験を元にして作成された小説、 「Black Box」が原作となっているものだ。

恋愛チックな描写なども描かれているが、本質的な部分はそこではない。 スタンフォード大学の報酬を与える代わりに集めた一般人に、半分は看守、半分は囚人という役割を与えて生活させる実験を行った。 ミルグラム実験と呼ばれる心理学実験の一つだそうで、人は特殊な肩書きや地位を与えられると、 その役割を演じて行動してしまうというものだ。こうなると人は暴力も簡単に行ってしまうようだ。 非常に怖い実験だと思う。

ここから得られる教訓はなんだろうか? そう考えたとき、逆にあえて実力がないときに役割を与えることで演じきれる。 なんだかうちの会社でよくあるやつだ!と思った。社長にしてみたり、役員にしてみたり。

初代ドイツ帝国首相であるビスマルクは、

Nur ein Idiot glaubt,aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor,aus den Erfahrungen anderer zu lernen,um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.

といつか言ったそうで、ドイツ語がわからん自分には全く読めないのだが、 面白い記事があった。

よく二次的に引用されているのは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というやつだ。 先に記した、東大の石井洋二郎先生の言葉を思い出してみるとこれは本当かどうかわかっていないので違う可能性が高い。

上の記事では、他の人が訳して 「愚者だけが自分の経験から学ぶべきだと信じている。私は最初から間違わないと誓ったので他人の経験から学ぶのを好む。」 という訳になったそうだ。自分でも調べてみて訳してみた方がいいのでちょっと調べたら、 「Erfahrungen」とは古い経験のことだそうだ。 そしてそれは二つ目の文章で「anderer」という「他の」という単語がついて再度使われている。 つまり、後者の訳の方が的確であると考えられる。

仮にビスマルクが本当に話した言葉だとしても「賢者」は「歴史」から学ぶと書いてはいなく、 「自分」は「他の人の経験から」学ぶと書いているのである。 (ちなみに中村うさぎは自身の著書、「愚者の道」で上の誤訳を用いている。)

石井先生ありがとう。僕はほんの少しだけ賢くなったかもしれない。 つまり人は「経験から」しか学べないのだ。

だから、自分にあえて普段演じたことのない役割を与え、経験することで人は成長できるはずだ。 愚者である自分はこれからもどんどん未知の経験をすることで成長していこう。そう学んだ映画だった。

大学のときの知識がでてきて読んでて楽しくなった

フィアネスゲージという人が爆破自己で鉄パイプが鼻腔あたりから貫通したのに生きていたという話。 大学のときに心理学の講義で聞いて気味が悪かったのを覚えている。 でも、脳科学や心理学的には非常に重要な発見となる例だったので改めて大学の講義はバカにできないなと。

その後のロボトミー手術の話も覚えていた。こういう偶然と膨大な努力で世界は少しずつ変わっていくのだな。 自分も今は良い!と思っているエンジニアリングが未来で「あれはクソだった」と言えたらいいな。

成長の鍵は真似だ

真似できるというのは、人間特有の機能なのです。例えば、相手が斜めに手を上げると、 さっと手を斜めに上げられる。手の代わりに足を上げたら、ぱっと足を上げる、 このようなことは人間しかできません。盆踊りで、踊ったことがないのに、 見様見真似で踊れるようになる。模倣というのはそういうことなのです。

これは行動を即時真似する話なので、全然関係ないのだけど、技術を盗むときも真似をするのは当たり前の良い例が下。

こういう本を読みすぎてわかった気になってはいけないと気づかされた

本はこの後めちゃくちゃ面白いMRIの原理の話に移っていき、何故、何を、どうしているのかがわかるように書かれている。 それはそうと、その後にこんなことが書かれていてハッとした。

脳の本がここ数年で多数出版されたので、一般の人は、機能的なことはかなりわかっていると誤解をしています。 そこが問題です。本質的なことを言おうとすると、肝心なことがわかっていないから案外言えないのです。 「脳から見ると」、という抽象的な言葉ですべて済ませて、肝心なことには触れていません。

自分も本を読んでいくうちになんだか詳しくなっているような感覚があったけど、全然違う。 人間、断片的な情報を得ていくと少しずつ鳥瞰する癖があるので、ある程度知ると全体をわかってきた気がします。 推定するのは人間の性だと俺は思う。なんとなくこうなんじゃないか?と考えてあたりをつける癖がある。 時にそれは非常に良いことだし、最近の機械学習でもようやくその手がかりを掴み始めたこの「あたりをつける」能力は、 勘違いの原因にもなると言える。答えは小泉先生が書いていてくれて、

逆説的ですが、世界の最先端は、わからないところがよくわかっている人たちです。

ということだ。少しずつわかっていっている状態はまだまだ勉強不足で、 やればやるほどわからなくなっていくのが本当の学習なのではないかなと思った。

エンジニアリングにも言えて、やればやるほど情報科学の分野は広く難しくて、 一生つきあっていく必要があるなあとわくわくした。


この先は実際に読んでもらって感動したほうが良いと思います。 ブレインマシンインターフェースの話ではうるっときました。科学が人を幸せにできるのだと思うと胸が踊ります。 自分もエンジニアとして人を感動させることができるものを作りたい。そう思えた。

脳と幸せという章は本当に面白い。脳科学から見た人間の幸せを考えさせられるすごく良い文章だった。 おすすめです。