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道産子エンジニア

毎週好きなこと書きます。

創価学会 島田裕巳

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初めに断っておくと、タイトルは本のタイトルをそのまま用いたもので、 僕は学会への興味があるわけではなく純粋に読書の感想を書いたblogである。 本書も宗教団体としての創価学会を擁護、批判する内容ではないと書かれているので、同じ立場である。

自分の中で創価学会のイメージは良くなかったですが、販売されているちゃんとした文献を読んだこともなく、 身近に学会員もいなかったので経典をもらったこともなく、実際どんな宗教団体であるのか知る術がなかった。 それでも週刊誌の節々にキーワードを見たせいか、暴力的で排他的な組織であるイメージが強かった。

今回本書を読んで、創価学会の歴史、創価学会の考え方、宗教というもののイメージなどが少しわかった。 自分は強い信仰はないのだが、信仰を持つこと自体は悪いとは思わないのが今の気持ち。

普段の生活の中で、宣教活動を受けた人も少なくないだろう。僕自身、小さいときに家に知らんおばちゃんが聖書をもってきたことがある。 そしておもむろに玄関に入ってきたかと思うと、宗教は何だ?神を信じているか?聖書は読んでいるか? などと話して、宗教に関して無関心であった自分にはこれ以上は無駄だと感じたのか、去っていった。 あとから考えてみれば、あれはエホバの証人であった。昔住んでいた家の近くには八幡宮もあったし、 エホバの証人会館、カトリック教会、曹洞宗の寺院、とかもあって宗教のパンデミックみたいな地域だった。

世界的に人権の一つとして、自由を保障されているものに信教の自由がある。日本でも、憲法20条に規定があり、

日本国憲法第20条 1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。 2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。 3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

とされている。よって信教するのは人の勝手なのだ。神を信じていても何の問題もないし、 世界的に自由を認められているのだから良いだろう。宗教家ではなく、ただの信仰がある人であるだけだ。 細かくいえば、積極的自由と消極的自由というのがあり、宗教活動をする!したい!というのも自由であり、 逆に、しない!したくない!というのも自由なのだ。また結社するのも自由である。 問題となるのは宗教活動なのだ。時として創価学会のように言論弾圧事件があったり、 オウム真理教のように地下鉄サリン事件を起こしたり、総理大臣が靖国神社参拝などの報道があったりするが、 これらは他人への宗教の強制、宗教を用いた行動の制御、宗教活動による事件が起きているのが問題だ。

彼らは自分たちの信仰を深めているのは問題ないが、それが他人にとっての信教の自由を奪われる、 心理的、身体的な影響を受けてしまう活動となっているのが良くない。そういう目に見えない力、 噂が人々の宗教へのイメージを変えてしまうので、本質が見えてこないことが多い。 本書はそんな気持ちを晴らしてくれる一冊だったのでよかった。

宗教と自分

なぜ初詣するのか、考えたことはあるだろうか。お墓参りとか、冠婚葬祭、クリスマスもお祝いする。 人間の、家の習慣となっている活動は本来どんな人たちが何のために行っているんだろうか? 気になってこないだろうか。日本人は特に、盲目的にみんなが行っているから自分も行っているみたいな、 集団思想からの無意識な活動をしていることが多い。特に近年では、戦後の高度成長期のあと、 ベビーブームで生まれた親をもつ子供の世代の世帯が多いと思う。アメリカ文化が押し寄せて、 いろいろなもの、ことが入り混じった世界を暮らしてきた世代なので、家の様式もバラバラ、 信教もバラバラの世帯が、同じ社会で暮らしてきたのだ。そうすると現状のような社会になるのかもしれない。

自分の家は特に信仰があったようには感じなかった。実家には仏壇と神棚があり、彼岸にはお墓まいり、 クリスマスはケーキを買ってお祝いし、誕生日は特に何もせず、年始は初詣のあとダラダラと過ごしていたくらい。 それ以外に自分が神のようなものを目にしたのは、大学の図書館で古事記を読んでいたくらいなもんだ。 オウム真理教の事件もみたし、家にカトリック教徒が宣教しに来た時もあったし、今年の三月の京都旅行で、 たくさんの寺院や仏像を見たが、信仰があるわけではない。

本当にこれまで強く何かを神として崇めたことがなかった。 これ自体は何も感じていない。

たとえ創価学会でも

もし自分が学会員の家系で2代目3代目だったら、これまでのしきたりを捨てて新しい人生を歩めるだろうか? 杉田かおるは自身の著書で、学会の退会後、結婚をしたと書いているそうだ。これは相当な決断だと思う。 学会の中には芸能部と呼ばれる、芸能活動を行う人が所属する部があり、広報など宣伝活動の全面バックアップされ、 現世利益をきちんと実現しているんだ。現世利益については調べてもらうとわかるが、 学会員にはその利益がきちんと現実世界であるという思想だ。

本書によれば、地方の学会員が都会に出て、その生活を支えたのが学会だったという。 設立者の一人、戸田城聖が実業家だった部分もあり、日本小学館聖教新聞といった耳にしたことのある会社も作られ、 それらはすべて現世利益を果たした一つの結果だろう。神がかりを持った宗教ではなく、実益による信仰は他にはほとんどないだろう。 これを踏まえて、学会で生活してきた人たちが突然、学会を否定し、宗教を変えるのは考えにくい。 単純に創価学会だからと、毛嫌いしているのはこれまでの事件のせいであるが、本来、 自分たちのために活動している学会員にとって、別に批判される筋合いはないし、自分がたまたまそこに生まれた2世3世であったら、 なんの罪もないのに責められるのは辛いだろうと思う。本書では最後に

創価学会という組織は、日本人の誰にとっても決して遠い組織ではない。 むしろ、私たちの欲望を肥大化させたものが創価学会であるとも言えるのである。

と書かれていて、確かにそうだなと思った。 学会員である、ない、信仰がある、ないに関わらず、それぞれを否定することは何人にもできないし、もしかしたら、 自分も気づいていないだけで、宗教に助けられているかもしれない。そんな時、否定できるだろうか? 大切なのはお互いにどんな人間であるか?を冷静に見極め、人に押し付けたりせず、それぞれの世界を生きることだと思う。

自分は神を信じていないが、それは別に特別なことではないと思う。