道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

渡邊恵太 「融けるデザイン」を読んだ

融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論

融けるデザイン ―ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論

デザインについての記事をアドベントカレンダーで書いたので、ちゃんとデザインについても勉強していくし、アート的な活動を含めてインアウトプットを増やしていく。 そのためにも読んだ本。あとは本通(文通の本バージョン)に使うためにも読んだ。 最近までは脳科学の本とか認知に関しての本を読んでいた分、脳が外界からの入出力装置であると思い込んでいた自分にとっていい本だった。 脳科学、認知科学のアプローチがまちがっているわけではないし、ちゃんとそういったアプローチから見える世界もあるが、それだけでは視野が狭いということに気づけた本であった。 それは60ページから64ページに「ギブソンの生態心理学とインタラクション」という説の内容だが、話が抽象的で全体を捉えにくい。なかなかうまく理解しにくいかもしれないが、自分なりの解釈を書く。 ギブソンの生態心理学では、僕が今まで勉強してきた脳科学や認知科学でいう「人間を外界からの刺激を処理する入出力装置」として論ずることを 「間接知覚論」 と呼ぶ。僕が読んできた池谷さんの本や茂木さんの本などはこの論じ方だ。 この考え方が優れているのは、外界という刺激を発生させている世界を分離し、脳単体での振る舞いを研究、分析することで人間の行動原理を探れる部分にある。 しかし、この考えをフルに適応してモノをデザインするのは難しいという。なぜなら、人間は意識があり環境に溶け込んでいて、自分がこの世界と離れる瞬間はないからだ。 いくら「脳は外界の刺激に対して反応をしているだけだ」という主張を聞いても、それを客観的にとらえることができないはずだ。 では、お腹の中にいるときは自分の意識がきちんとある人はほとんどいないだろう。これは成人に比べて外界の刺激がほぼない状態に近いはずだ。 脳は刺激に対して反応するだけだとすると、お腹の中では刺激が少なすぎて生きるための出力ができないのではないだろうか。 もちろん、重力、温度、音、触覚などはあるだろうが、はたしてそれらだけで、同じような刺激を受けられるミジンコと人間はここまで違う生命体になるだろうか? 人間は明らかにさらなる刺激を環境を通じて受け、また新しい刺激を受けに行くかのようにインタラクションしているように見える。目でみて、触って、動かして、環境と常に触れ合って成長していく。 それが本当に脳が受ける刺激によってすべて決まるだろうか。環境への行為とその結果としての刺激を使って成長していると考える方が自然じゃないだろうか? そうした「行動+その反応=体験」をベースに考える方が人間らしいかもしれないし、行動とその結果への反応をベースに人間が使うモノをデザインした方が自然じゃないだろうか? これが本書で得た最もいい気づきだった。

メタメディア

言葉だけみればメディアではなくそれが抽象化された 「メタなメディア」 だとわかる。この本でいうメタメディアはアランケイの定義にそのままで、 その柔軟性から「なんでも表現可能な装置」であるという。メタメディアの特徴は、その他のメディアを踏襲可能であることだろう。 今やスマートフォンは電卓、カメラ、ライト、テレビ、本、電話、PC、辞書、音楽プレイヤー、メモ帳、カレンダーなど何にでもなれるんだ。 万能リモコンのジレンマだと思うが、なんでもできる=なにをすればいいかわからないというのがユーザーというものだ。 それをデザインしてくことが重要だ。うむ。非常に納得がいったところだった。僕はアプリケーションエンジニアだ。 コンピュータとインターネットというなんでもできるメタメディアを「なにができるか」わかるように設計、デザインするのが仕事だ。そう認識させられた瞬間だった。

インターフェース

大学で死ぬほど考えたなぁと記憶が蘇る。デザイン的な科のある大学あるあるかもしれない。 ある程度学ぶと、世界に散りばめられた誰かが設計したインターフェースを意識して知覚できるようになってくる。 道に貼られた綺麗な模様のステッカー、駅の案内、本棚の傾き、服のシルエット、イヤホンの形、トイレの的、たくさんたくさん目に付く。 それらは、見た時にすぐにわかる、間違ったとすぐに気づく、狙いたくなる、触りたくなる、見てみたくなる。人間の欲望や心理の惰性と同じベクトル、直線状に作られている。 つまり、インターフェースは「人間はこうするだろう」を意識して設計されないとおかしなことになる。 D.A.ノーマンが誰のためのデザイン? で書いているのはそういうことだ。本当にユーザーにやらせたいことを一瞬も邪魔しないものでないといけない。もしくはわざと邪魔するようにしないとわかってもらえないことをさせる。 そうしてインターフェースは色を失っていく。見えなくなっていく。融けていく。その環境と人間のインタラクションという一連のプロセスを作ることをデザインすると書いている。 キーボードの話はなるほどな!と思った。思い通り動いてる間はインターフェースは姿を現さない。そうでなく人間の意識を邪魔した瞬間、インターフェースに色が付き、目の前に突然現れる。 優れたインターフェースはそこにありつつないモノだ。

能力の拡張とはなんだろうか

本書では、産業革命時の蒸気機関や電気による肉体的労働力の拡張や外在化が現代ではコンピュータによって起きており、知的能力の拡張を目指したものだろうと書いている。 AR(Argument Reality)=拡張現実感を例にコンピュータが人間の能力を拡張しているという話なのだが、どうも自分は人間の能力の拡張ではない気がした。 人間が作成した情報を画面に映し出して人間が知覚できるようにすることは拡張ではないと思う。人間にはできないことをできるようにすることを拡張というべきではないのだろうか? ARでも確かにそこに存在しない情報を得られるので、できないことをできるようになっているが、お店がディスプレイを外に置いておけば実現できてしまうし、 その方が人は何もしなくていいので便利かもしれない。でもこれでは拡張というより画面上で実現しただけだと思う。会話をチャットにしたのと同じような感覚。 映画「楽園追放」では自分の割り当てられたメモリに応じて、 星が死ぬ時のガンマ線バーストを聴いたり、ヒッグス場の感触を味わうといった感覚を体験できるという。これは人間が人間である限り不可能なことだ。 知的能力とはなにかと考えてみると、ものの理解をするとか、計算するとか、推測するとか、考えるとかだと思う。そういった部分を拡張してこそ真の情報技術じゃないだろうか。 例えば、文章を大まかにまとめることは理解のスピードや深さに貢献するし、他人が自分と同じ行為の後に何をしたかを知ることは次の行動をより正確にするだろう。 知りたいと思うだろう瞬間を様々な情報から推測して、検索せずに提示するなどは驚くばかりだと思う。こういうことができると知的能力の拡張だと僕は思う。 そしてそれはよくデザインされたアプリケーションが可能だと思う。

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メタファとアフォーダンスと透明性

少しでも情報系について知っている人ならメタファはもう何度も聞いているはずだ。アイコン、UIなど人間が操作する対象はメタファが重要になるという話は僕がするまでもない。 しかし、メタファの限界が近づいてきているのかもしれない。というより、メタファが果たす役割はコンピュータにとってなくなりつつあるのかもしれないということだ。 メタファは導入において力を発揮するものだ。導入が終わると人間は意識する必要がなくなる。 その辺のよりわかりやすい記事はメタファからイディオムへ|ソシオメディアを見てもらう方がいい。 この記事ではイディオムと呼ばれている部分がこの本でのアフォーダンスではないだろうか。 前に数学でつまずくのはなぜかという本を読んで記事を書いた時もアフォーダンスが出てきた。そこでの定義は

適応する生物が、環境に応じて能力を開発しているのではなく、環境そのものに知覚者に適応させる情報があるということをアフォーダンスという。

だった。このアフォーダンスが透明性に大きく関わっているように思う。本書では「可能」の知覚が優れているモノという表現もされている。PCやスマホはどんどん未知の機械ではなくなっている。日々生活に融け込んでいき、アプリケーションレベルではもうほぼ透明だ。

透明なアプリとはなんだろうか

自分はアプリケーションエンジニアなので、作りたいアプリを透明にした時、そこに残るのは何か考えてみる。透明なアプリとは自己帰属感が高く人間の行為とその反応の遅延がないものだろう。さらに物質的なメタファすらなくなったとき全く新しい次元の透明なアプリができるのかもしれない。これは物質的な動きやフィードバックにこだわるグーグルのマテリアルデザインにすら反するモノだ。そこまでいっているアプリはほぼないだろう。なぜなら、以下の引用にもあるように

本やウェブとのインタラクションは、「情報を得る→理解する→行動して問題に適用する」というプロセスをたどることになるわけだ。

これでは人間の能力の拡張ではないし、本当にユーザーがやりたかったことのプロセスの中で透明になっていない。情報技術を使って行為とその結果が一直線につながらないといけない。 透明になったアプリが提供する「新しい可能」や知覚はなんだろうか?そこを定義し、設計し、実装まで持っていけたら勝ちだと思う。 例で取り上げられているTwitterの提供している価値は、今年悩み続けた「なんだTwitterを人々が使うのか」という疑問を少し晴らしてくれた。 なぜ悩んだかはメタファがないからだ。Twitterはメールじゃない、チャットでもない、掲示板でもない、だからなんで使ってるのか不思議でしょうがなかった。 こういうものが現実世界でイメージできないからだ。でも「イメージできないような世界での人間の行為は短い言葉をつぶやく」というのが新しい価値だったんだ。 これに気づいていなかった。強いてイメージするなら、渋谷の交差点で佇んでいるようなシーンでは独り言を言ってしまうようなものだろうか。 いろんな世界から来た、いろんな人たちがごちゃごちゃになって歩く交差点。広告看板や音楽が所狭しとひしめいた目の前の光景。そんな感じ。


特に7章では僕のアドベントカレンダーにも通じる、エンジニア、デザイナーといった括り方を超えたデザインについての話が書かれている。その辺は読んでのお楽しみ。あくまでデザイナーがエンジニアリングを理解することの重要さというコンテキストでの見解だが、それはエンジニアにとっても同じだと思う。

僕はもはや、デザインとエンジニアリングという壁も融けて透明になり、テクニカルクリエイターなのかデザインエンジニアリングなのか言葉はさておき、技術を用いて「新しい価値」を提供するときのインターフェースを設計することをデザインとかエンジニアリングとか言えばいいと思う。

重要なのはテクニカルであり、インターフェースは透明であり、人間へ新しい価値を提供していることである。そしてそれはこれまでのようにメタファで表現できたり、できなかったりもするような新しい価値である。さらにそれがすぐに「可能」になっている。そういうモノ作りがこれからの時代に必要だし身に付けたい。