道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

フィリップ・K・ディック「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」を読んだ

パーマー・エルドリッチの三つの聖痕

パーマー・エルドリッチの三つの聖痕

今年に入ってから四作目のディック。先に書いておくとめちゃ面白かった。

ディックは過去、現在、未来の世界を隈無く描く。過去を印象付けるものに「元妻」という表現が多い。 今回も元妻のエミリーが登場し、主人公のバーニィ・メイヤスンが苦悩する。 ディックの作品では「過去をことに触れるとロクなことがない」というパターンがよくある。でもそれだけじゃないのが複雑で面白いところでもあった。

今作は信仰が中心となる物語の構成だった。荒廃した火星で蔓延する麻薬のようなキャンDへの信仰を持つ人々。 灼熱地獄となった地球に住む人々は怪しげな外科手術による人工的な進化を信仰する。 メイヤスンが火星行きの宇宙船で出会った、強い信仰心を持つアンとの関係も信仰をきっかけにする。 チューZを使った後に見える、幻想世界と実世界の溶け合いで人々が見る神への信仰などなど。

こんなに印象的に信仰の世界を描かれるのはディック作品では珍しく、逆に新鮮だった。

キャンDとチューZ

今回はパーキーパットの模型セットという、個人個人が薬でハイになりながら移入できる小宇宙模型のようなものが出てくる。 ディックの作品ではいくつかこういった模型が出てくる作品があり、荒廃した実世界において人々が没入するゲームのようなものとして描かれる。 この作品がめちゃくちゃ面白いと言われる由来の一つに、この模型に移入する為に使用される薬、キャンDを使用してハイになっているときの表現が生々しいことがあげられる。 インタビューなどでは本人は否定しているそうだが、この頃本格的にディックが薬に手を出していたのではないかとマニアたちは噂しているようだ。

俺的には使っていようが使っていないがどちらでもいいのだけど、確かにここの幻覚症状がでた人々の状態がかなりリアルに描かれている。 まるで本を読んでいるのに、自分も幻覚を見ているかのように錯覚するくらい生々しい。

何より好きなのは、幻覚症状を生み出すための薬の名前だ。人々が今や日常で服用するようになったものはキャンDで、 後半にチューZというのも登場してくる。一撃で覚えられるし、なんだか本当にやばい薬の隠語になっていそうだし最高。

キャンDだからしゃぶりつくような人々の依存状態も見事に言い表しているし、これ以上の名前はないと思う。 びっくりガジェットが目立ちがちだが、こういった細かい設定にも面白さが込められている。

女性関係について一番ややこしい作品

いつもの若い娘役としてはプレコグのロニ・フューゲイトも登場し、三人の女性関係が描かれていた。 作品を書いている最中か前後に、女性関係で苦労していた時期なのかもしれない。

こういったいちいちややこしい人間関係を書きたがるのは、ディックの壮大な未来の世界でも、人は人と関わり続けることに変わりはないという暗示なのかもしれない。 そこが愛らしくて好きだ。車が空を飛んでも、惑星間移動ができるようになっても、人は人に恋をして、交わっていくしかないというのが面白い。 逆に、アンドロイドと恋愛するという描写も出てくることはあるが、そこをテーマにするようなことはない。(ディックらしくもないし) それよりもより人間らしい機械、より機械らしい人間といった哲学的なことについて書いていることのほうが多い。

アンドロイドと人が恋愛をするかという観点では、昔から多くの作品が存在していると思う。 最近では、人気小説「BEATLESS」がアニメ化されたりもしている。漫画ではちょびっツとかもそういうテーマだと思う。

アナログハックできるようになれば、機械は人の印象を操作することができるようになり、例えば、 好きになってもらうことができるかもしれない。そうしたときどういう世界になるかというのは、色々な作品で描かれていると思う。 恋愛物語が嫌いなわけではないが、あまり面白い作品を知らないので、あれば見てみたい。

また、主人公とフューゲイトはお互いにプレコグなので、お互いが恋に落ちることを未来予知して、 面倒な馴れ合いを飛ばしてすぐ交わり合うという設定は好きだった。

同年代の恋愛相談をしていると、「駆け引きとかそういうのが面倒で飛ばしたい」という人が結構多いが、 そういう人にはぜひプレコグの能力があれば幸せだろうにと思ってしまった。

芸術は長く、人生は短し

ちなみに俺は駆け引きとかそういうのこそが、楽しみであると思っているので、同意はできないのだけれど。

幻想と現実に存在しうるエルドリッチを待ちながら

読んでいて感じたのは、エルドリッチが存在しているように振舞いながら進む物語がチューZの副作用による幻想ではないかという不安。 ちょうど、ゴトーを待つ浮浪者の気分を味わいながら、ハイにされた読者は夢と現実の境を見失っていく感覚。 そこで頼れるのは怪しい手術で進化した人類の脳か、最高の気分を味わえる薬か、信仰する神か。 三つの信仰は聖痕となり、読者は信じるものを疑い始めていく。エルドリッチは読む人によってその姿を変えると思う。

おすすめです。


今のところ、歴代でも三本指に入るくらい面白い長編だと思っている。

読書所要時間:約6時間
おすすめ度:★★★★★