道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

リア充は自己実現の尺度であるべき

最近母親がスマホに切り替えたらしい。ヘビーなdocomoユーザーで、movaからfoma、fomaからXiへと押し出されてきたようだ。 やはり親世代というのは情報機器をアップデートしていくという感覚はないらしい。 初めてのスマホでiPhoneを使い始めたらしいが、俺も昔から番号が変わっていないので、番号から色々なアカウントが見つかったらしい。仕事で地元に帰ったら「あんたのインスタアカウント見つけたよ。随分リア充してるんだね。」と言われて少し気に障ったという話をする。そんなに気にもしてないで言ったのだろうし、このブログも見てるかもだけど。


昔のように母を訪ねて三千里旅する必要もなく、iPhoneの電源を入れれば息子が元気に暮らしているのがわかること自体がかなりリア充だと思うのだがどうだろう。 ところでリア充って自分もたまに話の流れで使ったりするけど、一体なんだろうと思った。インターネットスラングで、リアルの生活が充実している人をさすのはわかる。 そうではなく、自分にとってリア充であるとは何だろうと。

相手への評価をするときにリア充と使うのは、自分の現実からみた相対的な相手の状態をさす。 つまりそれはまったくもって思い違いの可能性があるのだ。旅行の写真ばかりあげているインスタアカウントでも、 本当は普通の会社員で自宅で拾ってきた画像をあげまくってるだけかもしれない。その一体何が充実しているのだろうか。 とにかく人を評価するのにリア充というのはかなり誤解を招く可能性があるのでやめた方が良さそうだ。 では、自分がリア充ですと言い切るにはどんな状態を指すんだろう。

思うに、自己実現をできていることを指すんじゃないだろうか。俺は休みの日に陶芸をしたりジムに行ったり旅行したりと、 自分がやりたいと思うことを可能な範囲でこなしている。しかし、充実したとは思っていない。むしろまだ何かに満たされないような感覚すら覚えるからツラい。

本当は嫁とグダグダしたいとかもっと出かけて美味しいものを食べたいとかも考えるし、気がすむまでコードを書いたり本を読んだりもしたい。 できるなら故郷の家族を救う何かもしたいし、ヒカキンみたいにポッと100万円を被災地に寄付だってしたい。でも全部は無理だ。 やりたいことに優先順位をつけて、自分が集中したいことに時間をやりくりしているんだ。引っ越しだってまだ全部終わってない。

いつかリア充したくて足掻いているこの儚い人生を、「リア充だね」って言われて嬉しいのは本当のリア充だけじゃないだろうか。 それでも俺は幸せにやっている。なんだかそれで良い気がしてきた。もっとよく、もっとうまく生きていきたい。 そのためには自分から行動し、それを実現するしかないのだ。

リア充ってのは人を皮肉る言葉じゃない、自己実現をして自分を褒める言葉だ。

一歩ずつ、自己実現の日々はこれからも続く。自分をリア充にできるのは他のだれでもなく自分なのだ。

この前デートしていたら久しぶりにAviciiの「I Could Be The One」を聞いたのだが、ぴったりな曲なので貼っておく。

Avicii vs Nicky Romero - I Could Be The One (Nicktim) - YouTube

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