道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

逆算した人生のつまらなさを知るには旅行にいけ

コロナでお預けになっていた新婚旅行を今ヨーロッパで実施している。今のところ大きな問題もなく後半に入っていて楽しく過ごせている。水の違い、言語の違い、エスカレーターの乗り方の違い、大小様々な違いを通じて文化や常識を主観的かつ客観的に感じさせられるのは楽しい限りだ。 ところで、そんな違いの一つで面白いのが、イタリアで多くみたもので「予約をするとチケットが高くなる」だ。日本では事前に予約をすると基本的に安くなるよね。詳しいことは文化的背景から分析しないとわからないけど、何にコストを払うのか?の違いがこの差を生んでるように感じた。こっちでは「事前に予約して、あなたを優先的に扱いますよ」というサービスに対してのコストとして考えられているように感じた。挨拶しないやつと金を払わないやつにはそれなりにしますよというのが根底にある。日本はどうだろう。ファストフードほどクオリティを求められてないだろうか?牛丼然り、ファミレス然り。まあ、このテーマは主題ではないのでこれくらいにしておく。

旅行に来ると、ああ自分って本当に何があってもなんとかしていくんだなみたいな自己効力感を味わうことが多い。イタリア語もフランス語も雰囲気で話しててもはやコミュニケーションではないレベルなのだけど、そういうことではなく、不足の事態や思ってなかったことが起きてもまあ割となんとかできるという感覚。

この旅行だと、何日かかけて見ようと思ってた場所が一日で見れたり、時差調整ミスってタイミング逃した晩飯を適当に入った店で済ましたら意外に美味かったり、忘れた整髪料を現地で買ったら意外と使いやすかったり、妻のスマホ壊れたけど旅行2日前に俺が勢いで買い替えてたからスペアとして使えたり、バスに忘れ物したけど帰ってきたりまあ色々なことが起こるわけ。

でもさ、全部偶然とは思えないくらい必然のように起こる偶然な気がしていて、直感的な糊しろというか、そこに至る小さな自己選択の機微がこのシーンを生み出したのでは?なんて勘違いするくらいにはリアルは面白いんだよね。そしてそれを生き抜く力が人には備わってるんだよ。人生はこう生きたいよねというのが今回の主張である。

1000chさんのキャリア論にはすごく共感していて、僕も逆算した人生を否定したいわけではないんだけど、明日死ぬかもしれない人生で今する計画にどれくらい意味があるんですか?とは感じている。論理的に説明されたいわけではないので、この思想があることは理解しているけど、仕事とかではこの傾向が強すぎて疲れちゃうよね。

私が言いたいのは、キャリア形成が必ずしも中長期ゴールからの逆算である必要はなく、むしろ時々で納得できる選択を繰り返していくことも、選び取りたいゴールに辿り着くために重要なのではないかということだ。

みんな、大した計画もせずに旅行に行こう。自分はどれほど臨機応変に今を楽しんで生きていける人間であるかということを感じられるはず。

人生でやりたいことは俺もある。だが、計画はしていない。やると決めているだけである。 人生の計画にどれほど蓋然性があるのかを知らずにTodoリストを消化するだけのような生き方は、旅行に出てみると変わるかもしれない。