道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

仕事と趣味について考えた

読書進まなくて泣いてるが、なんで進まないかっていうと気持ち的にもスケジュール的にも仕事がきついからだなーっ。イヤなわけじゃなく、今は一番力入れて働いてるんで楽しくやっている。そんなノリで出社している日曜日のチームメンバーとの会話でふと出てきたキーワードが心に残ったので記事を書いてみる。何かというと仕事と趣味の話だ。今日ふと気に入って買った 登山用のトレッキングポールを見られて趣味の話になった のがきっかけだった。

俺は多分趣味が多い方だけど、アプリを作ってる今の仕事は趣味ではないなぁと思ったという話。仕事は趣味の延長でやるべきかそうではないか?みたいな宗教論争があるけど俺からすればどっちでもいい。たまたま趣味であるかもしれないしそうじゃないかもしれないくらいだ。他に趣味がなくてそれ一筋!って人もいれば、家では一切仕事をしないでいろいろな趣味をする人もいる。仕事ができるできないは趣味であるかどうかに関係ない。そもそも話が交わっていない二つの概念をなんで混ぜるんだろう?俺は没頭すればあるときは趣味よりも仕事が楽しくなるし、仕事が全くやる気が出なくて趣味に耽るときもある。単なる気分と生き方の問題だ。そんな自分の仕事と趣味への考え方を書き残しておく。

エンジニアという仕事

エンジニアという仕事が好きだ。めまぐるしい環境変化、チームや社内やTwitterや世界までたくさんのエンジニアがいて、情報技術を使う特性からいつでもコミュニティと薄く広く繋がっている。何かいいことを呟けばたちまち世界中にシェアされて、世界中のエンジニアが気持ちを理解してくれる可能性もある。僕は一生仕事をしていくなら何がいいか?と聞かれたら間違いなくエンジニアと答える。

仕事という言葉には少し誤解があって、自分はどんな技能で社会に貢献したいか、誰かを幸せにしたいかと聞かれたら、プログラミングを用いたエンジニアリングでやりたいという気持ち。もっと根本的なところを言えば、自分は文字を読んで理解して、それを伝えて形にするのが好きだ。そういうモノ作りがしたい。そういう意味では本を書くことも天職になったかもしれない。どちらも読み手や使い手のことを考えて作るのは同じだが、本を書くこととプログラミングの決定的な違いは、プログラミングは結果的に機械の制御をするという部分だと思う。今は毎日、(この一言では伝えられないほどたくさんの考えることはあるけど)スマートフォンのピクセル計算をしながら、使って気持ちいい動きのアプリを作っている。本は違う。文字が人の心に作用するモノだ。でも、「文章を読んで、書いて、モノを作る」点において二つは同じだ。それが好きだ。だから文章を書く技能を磨いていきたい。文章を書くことについての考え方は結城浩さんの「よい書き手は読者から学ぶ」という記事がすごく好きでその通りだなと思っている。

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この記事でいう「表現」にあたる部分が文章のままであるか、スマートフォンのアプリやソフトウェアになっているかの違いだと思う。書くことで理解しすやすい文章を書くのか、動かして気持ちのいいアプリになっているのかということだ。プログラミングを用いたエンジニアリングがさらに面白いのは、アプリを使うユーザーのために良いものを作るだけでなく、それを運用、保守、管理していく同業エンジニアのためにも良い文章を書くことを心がける必要があるということだと思う。そしてそれがプロダクトが死なない限り、永遠に繰り返していく必要があるということだ。これはとっても幸せなことだと思う。

読む人が多い方が嬉しいのは当たり前だし、その幅が広いほど、気をつける事柄が増える。その分学ばないといけないことは多い。学んで成長し続けて、人に感動を与え続けられる仕事ってかっこいいじゃない。これは俺が作ったんだ!って胸を張れる仕事がしたいんだ。そういう意味では人に見える形でモノを作るのが好きなのかも。もちろんプログラミングで作るモノは見えないことの方が多いんだけど。今はうまくできていないかもしれないけど、誰かを感動させられる文章を書いていきたい。

たくさんの趣味

「前川はいつかフラッと何かの趣味に目覚めていなくなりそうだよね」 と言われて、その後さらに 「少なくともエンジニアリングが趣味ではないんだろうね」 って言われた。その通りだなって思った。道具集めて登山するのも趣味だし、来月からは陶芸教室にも通う。今年は良いカメラ買ってさらに腕を磨きたいし、船舶免許取る予定だし、日本酒好きの次のレベルに行くために蔵訪問や利き酒師の資格取得もしたいと思っている。趣味は尽きない。自分が楽しそうだと思ったらなんでもやってみるべきだ。その体験が人間としての幅を広げてくれると信じてる。別にそうじゃなくてもいい、ただやってみたい。やらなきゃ気持ちが悪い。何がいいのか、ハマるのか知りたいからだ。

趣味の話をするときの受け売りでよく自分が言っているのは、趣味は本当に極めようと思うとある厳しい一線を越えないといけないという話だ。なにか自分が人生をかけてそれを続けていきたいと思うものに出会うまでなんでもやってみたくはないだろうか?その厳しいある一線の前に立ったとき、自分は人生をかけてやりたいか?それで誰かに感動を与えられるか?そういう判断をしながらチャレンジし続けていきたい。それが生きるということだろ!って思う。そしてもしなにか「これだ」と決める「目の前にない何か」(聞いたことあるセリフ)に出会ったとしたら、俺は間違いなくそれに人生をかけていくと思う。今はそれがエンジニアリングであるというだけだ。

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たいてい、自分が費やしてきた時間が多いほど趣味、仕事、人生をかけたいものになると思うけど。

一線を越えた人生をかけたい何かに出会う旅をしてるだけ

つまりたくさんの趣味は、自分の生き方を考えてチャレンジしつづけている過程だと思う。人は若いときにここまで考えないだろうし、勉強するという言葉にまとめられているせいで気付きにくいのかもしれない。何をやっても極めるには学び、表現する必要がある。その人にとってベストは何であるかはわからない。だからいろいろやってみてる。もう、決めてそれ以外にない!と決めた人は趣味に時間を使わなくてもいいと思う。

今はエンジニアリングだが、変わる可能性はあると思っているから趣味をしている。そういうものに出会う旅をしつづけたいという生き方を選んだんだなと思う。「ストレス発散のための趣味」とか「仕事が趣味」とかそうじゃない。趣味や仕事という言い方はもうやめて、人生をかけてやりたいか?という基準で考えれば答えが見つかるかもしれない。やりたくないことをやって生きていきたくないから、常に何かやりたいことにチャレンジしていきたい。年齢や性別は関係ない。今やっていることは、自分がやりたいことか?常に意識していきたい。

余談だが、トレッキングポールって今まで買ったことなくて要らないと思っていたけど、それは使うまでもない山に登ったことしかないからでは?と気づいて、今年はせめてやる!って思ったから買った。あとはポールの見た目がクソストライクゾーンだった。笑 動機は不純でいい、それをやってみることに価値はあると思う。明日、「自分の人生が変わるかもしれない一瞬」を求めて新しい趣味を始める。そうやって生きていきたい。けれど、金は有限だ。笑