道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

数学でつまずくのはなぜか 小島寛之

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

数学でつまずくのはなぜか (講談社現代新書)

なんで読んだのか

別に数学がめっちゃ好きなわけでもないし、得意なわけでもないし、必要なわけでもないし、影響を受けたわけでもない。 けど、なんだか論理的に考えるのは好きだし、実は数学っぽい話だった、プログラミングをしている、 とか色んな複合的な何かが自分の中で積もり積もってダウンロードしていたというだけ。

読んで良かったと思っているけど、数学が得意にはならないし、ちょっとだけ数学の歴史、 論理思考のエッセンスを得たぐらいだった。でもとっても面白かった。

このエントリでいうように、

私自身は、どんな状況においても無意識のうちに数学で鍛えた発想力を役立てています。 ただ、どんな学びにも共通して言えることですが、学んだことを役立てられるかどうかは本人の学ぶ姿勢次第。

これはその通りだなと思う。自分の同期にも数学科出身がいるが、いつも「数学をやればわかる」と言っている。 「論理的な思考こそ数学」とでもいうように考えていて、 仮にそうでないとしても数学がそう役に立っていると思っているのは間違いないし、現に役立っているからそういえるのだ。 これ以上の説明が必要だろうか。

本書にでてくる「とある数学が苦手な子」は、実は数学に必要とされる論理的な思考の素養はずば抜けていたのに、 学校の成績が悪かったそうだ。その子はなぜそうなのか?を必ず自分で確かめないと気が済まなく、 「公式を暗記して問題を解く早さを評価される数学」の成績が悪かったそうだ。自分もその子ほどではないが、 なぜそうするのか?を調べないと気が済まないたちなので痛いほどわかる。 (単に物覚えが悪かったので数学の成績は良くはなかったが。) 最近自分で思った答えは、「歴史を学ぶこと」がまさに「なぜそうなったのか?」を知ることの一つではないかということだ。 今まで日本史、世界史ともにぼろぼろの成績だった気がするが、別に歴史を学ぶのが嫌いではなかった。

ただただ、なんの文脈もなく学ぶ歴史が頭に全然入ってこなかった。なんでこんなに突拍子も無く歴史を学ぶのだろうと疑問に思っていた。 でも最近は、「なぜこうなったんだ?」というモチベーションからプログラミング、数学、音楽、芸術などさまざまな歴史を調べている自分に気がついた。 それを客観的に気がついたとき閃いた。あぁ、これが歴史を学ぶということかと。それからどんどん楽しくなった。

その流れの一つで、数学の歴史について書いてあるこの本はとても楽しく読めた。詳しいことを書いてあるわけではないが、 自分が何となく勉強していたパズルのピースを一つ一つ繋げていくような楽しさがある。

もう一つ面白い考え方があり、小島さんは上に書いたような、 本質的な数学の能力を問うているわけではない学校教育は問題があるとは言っていない。 むしろ、学校教育はそういう社会への従順さを身につけさせるために教育する機関であるとしたとき、 一見数学の勉強に関しては不合理に思える教育方法、教材、テストなども何かの正しさに基づいて合理性を持っていると主張している。

自分はこのエントリで書いたように、 大学は企業の求める人材を育てる機関ではないという意見を持っているので、小島さんとの考え方には反している。 しかし、確かに、論理的に考えるとそれも間違っていない気がする。自分たちの思う人材を要求する代わりに、 資金面の協力、技術面での協力、就職の協力などを行っているではないか。双方間違っていないし、 双方そうじゃないと主張するんだろうなと思う。

自分の意見や主張を通すためにやっていることはあるし、自分とぶつかる考えややり方をもっている人たちも大勢いるはずだ。 それぞれの良さ、悪さを取りながらベストを探していくしかないのだなと思う。

ただ、自分の意見はちゃんと持っていることが前提だけどね。

自分の大学の恩師が企業に対してい反感を持っていたのは、自分が大学を運営している当事者意識があり、 その任務を全うしなければいけないからであるとも考えられる。(本人はそうじゃないっていうだろうけど)

数学の持つアフォーダンス

自分の出身大学は珍しくて、情報系単科大学なのにデザイン(的なことを学べる)コースがあった。 絵を書くとか感覚を磨くようなコースではなく、ITを応用して可能な「工学としてのデザイン」を学ぶものに近いように感じていた。

そんななかでよく「アフォーダンス」という言葉がでていた。

そのとき学んでいたアフォーダンスとは、ドアノブを例にして、ドアノブをデザインするとき斬新であるよりも、 人間がドアノブだと理解できる、または回して引くモノだというのが説明しなくても理解できる様相をしていることがアフォーダンスという話だった。

なんだかそんときは違和感を持ちながらもふむふむ〜と聞いていたが、数学に絡めてみるともう少し理解が深まった。

本書では、アフォーダンスの説明を文章にすると以下だと書いていた。

水は、「泳げる」という情報を生物にアフォードしている

適応する生物が、環境に応じて能力を開発しているのではなく、環境そのものに知覚者に適応させる情報があるということ をアフォーダンスという。 よって障害というのは、多くの同種が共通に受容している方法で知覚出来ないだけである。という考え方は面白い。 そこから環境がもつ数理的な性質を受容する方法は様々であり、数学な苦手な子というのは本来存在しないのである。 と考えるのだ。

覚えの悪い人、自分の思う方法で教えても伝わらないのは、単に自分の教える方法が悪いとか、 相手の頭が悪いわけでないと考えるとワクワクしたのは自分だけかな? 何か対象に備わっている性質を学び、身につけるには、考え方、覚え方、理解の仕方が違えど、可能なのだと言える。

自分が学ぶとき、理解に苦しむときはやり方を変えてみる。 自分が教えるとき、相手に理解してもらえないときは教え方を変えてみる。

必ずうまくいく方法があるはずだ。(自戒)

こどもに教えるときにどうするか?という考えかた

この本の中でずーっとテーマになっているのは、子供に教育としての数学を教えるときにどうしたら理解しやすいのか。 物事を誰かに伝える時に、どう工夫すると理解しやすくなるのか? いやむしろ、数学という学問が作り出してきた世界の何が「学習の妨げになっているのか?」ということだ。

子供たちが数学ができなくなるのは大抵「実際にイメージできない」からである。

負の数ってなんだ?は「借金だ」っていってみたり、負の数と負の数の掛け算はなぜプラスになる?では、 気球をつかって説明していて、上昇と時間経過の掛け算では元の位置よりプラスの位置(上方)にいて、 逆に下降(マイナスの速度)と時間の遡り(マイナスAAMの時間)を掛けると現在の位置よりプラスの位置(上方)といるとしている。 マイナスとマイナスの掛け算はプラスになるという考え方以外の方法で、方向算を説明しているのだ。 これは誰に取っても直感的でわかりやすいと自分は思った。

相手が自分より明らかにある物事に対して理解がないときは、より慎重に、より実体験に近く、共感を求めるのがよい。 そのために「例えば〜」「〜でいう...」みたいに手かえ品かえ伝える癖が必要だと思った。

自然数とノイマンとデデキントの無限

ペアノの自然数を批判したラッセルが、フレーゲの法則を使って組み上げた自然数の理論は論理矛盾を持つが、 これを現代に甦らせたのがフォン・ノイマンであり、我々が日常的に使うコンピュータを作った人でもある。 「悪魔の頭脳」を持つと言われるほどの天才だったそうだ。

ノイマンの偉大なる功績の一つは「超限順序数」という「無限」を「実在する数」として扱ったことだ。

ちょっと関係ないけど、最近「イミテーションゲーム」という映画を見て、 エニグマを解読したチューリングの話を調べていたので、ノイマンの方が本当は大きな功績があることもきちんと調べたくなった。

この本の中でも筆者が一番熱を入れている第5章では無限について考えることになる。

自分は無限について深く考えたことがなかったし、普段も有限の考えること、考え方でしか考えていない。 そんな自分にも無限という概念は生まれた時点から備わっていて、世界にアフォードされていることに気が付ける章だった。

無限について理解してくると、メタ認知の癖がつくように感じる。抽象化は無限の生き方のテーマな気がする。 仕事、生活、恋愛とかそういうものをちゃんと理解しながら生きようとした時、 人は勝手になぜそうなのか?とか、理由や思考の原因を求めるように出来ていると思う。 それを助けるのが無限回の抽象化だし、無限回繰り返して行き着いた、有限の場所が見えると人間は安心する。 そんなわけのわからない思考をしてしまっていた自分に出会った章。

最後の方の文章を引用して、噛み締めておく。

f(s)=[sのことを考える]という関数を作ろう。これはSからSの内部への一対一対応になる。したがって、 私の思考Sは「デデキント無限」になる。

~中略~

「私の思考」というところに「無限」を生む源を求め、自然数を生む源を求めるデデキントの発想は、 とてもユニークで深遠なものだと思える。なぜなら、自然数を生み出すための素材になるものは、 無限(デデキント無限)であり、しかもそれは、「わたしたちのなかにある」といっているからである。

面白かったトピック

実際の内容をネタバレするとおもしろくないと思うので、面白かったトピックを箇条書きにする。 自分でも後で読み返すと、どこを読むべきかという道標になると思う。

  • ウィトゲンシュタインの思案「規則の恣意性」。問いの意味と答え方は多様であり、きちんと定義する必要がある
  • ユークリッドの偉業「幾何の法則を体系化した話」
  • コオロギが一分間に鳴く回数の法則は「y=7x-30」(xは摂氏の気温)
  • 自然数は「集合の集合」

数学の本読んでるって人にいうのがなんとなく気持ち悪かったので記事にしておいた。 なんか変なこと考えてるなぁくらいでいたい。 数学者の本を読むと思うのは、数学者って自分が思ってるような人ではなく、 哲学や深く思考することが好きな人たちなんだってこと。