omoさんのブログを読んでいて、クラクラするほど共感と反省とが入り混じり、感動したものを見つけた。
Why Blog - steps to phantasien
自分がブログで書いたことのある矛盾を見つけ出した気がした。
俺は「大衆向けにこのブログを書いてない」とこのブログに書いてたりする。
だが最近はもっぱら、ここで指摘されているように
なんでも知見を書いておくと検索経由で誰かの役に立つかもしれない
という観点で残そうと書いていたと思う。そして
まずひと目を気にしだすと、たとえば social media で buzz りたい、みたいな誘惑に弱くなる。
と言われている誘惑に自分が一切関心がなかったかといえばYesとは答えられない。omoさんの指摘通り、
Social media での人気は内容の有用性とは必ずしも比例しない。人目を求めると程度の差はあれ延焼性を高めたり clickbaity になりがち。
だと思う。
もう一つ、人の視線を気にすると自分を実際以上の良いプログラマに見せたい誘惑もうまれる。これは炎上の重力とは違うけれど humbleness を欠く。ハッタリ志向になるというか。
自分はどうだったかと考えると、まさに humbless
じゃないかとさえ思ってしまう。ブログに恥部をさらけ出しているような醜悪さだ...
「〜〜を書きました」って自分のツイートを検索するのが怖い。気がつけば承認欲求に駆り立てられている自分に嫌気がさしてしまう...。
Androidの人なら、自分もこにふぁーさんや白山さんの用になりたいなと一度は思うんじゃないだろうか。なぜ自分はヒーローでなかったのだろうと。 けれど、そういったヨコシマな気持ちで書いた記事など得体の知れないゴミ同然だろう。
なので人目の誘惑からは距離を置き、自分の興味や、可能な範囲で仕事の発見、思ったことなどを、ほそぼそと書き続けるのが良い気がする。人気は出ないかもしれないけれど、長くやるほど自分の(職業的)パーソナリティがにじみ出ていくはず。
自分もこう思っていたはずだと、再認識したし、そうでないと自分らしくないじゃないかと反省した。Socialな会社にいつからか自分は毒されていたのかもしれないと、責任逃れしたくもなってきた。
長く続ける燃えてないブログは、個人の情報開示として優れている。GitHub にコードを置くのも同じ理由で意味がある。ただ2つは開示するものが違う。GitHub はプログラミング能力を示し、Blog は(プログラマとしての)人となりを示す。
何かを書くことは楽しいと純粋に思っているし、これからも続けていきたい。そうしたら真摯に向き合わないといけないよなと夢から覚めたような感覚が生まれた。 思い返して、過去の記事を読めば、ここには自分らしさがよく詰まっていると思う。
これを読んでいる人がもしブログを書いているならば、自分はなぜブログを書くのか、そのためにhumbleness
に向き合えているか思い出せたらいいと思う。
俺はomoさんに共感しているが、みんなそうではないし見られたくてしょうがない人はいると思う。それを否定するつもりは決してない。
正直、誰にも強制されずブログを書き続けることは「変」だと思う。でもそうしないと気が済まないのだからそれが人生だと思う。厄介な生き方を選んだもんだな。
もう一つ、大学のころに「考えることと書くこと」について、レポートを書いたことを思い出した文章があった。
ブログのもう一つの側面である、考える手段としての文章書き。個人的には割と重く見ている: 物事の理解を助けるには、そのアイデアや思考過程を書き出すとよい。
なぜ書くといいのかということも結構調べたんだけど、忘れてしまった。いつか家に帰ったらレポートを探してみる。書くことで整理されるって人の面白い仕組みだよなぁ。