最近バスで出勤していることが多いが、バスの広告はひどい。そこにデザインされた美しさはなく、情報が水の上の油のように世界に浮いているだけだ。いや、広告とは本来、人の違和感に訴えかけている部分が大きいので、そういう意味では俺はひどい広告の罠にハマってるのだ。
バスでそんな(どうでもいい)ことを考えているのかと思うかもしれないが、朝の喧騒を忘れるには読書か思い耽るくらいしかないのだから仕方ない。
そんなギトギトした広告も役に立つことはあるようだ。
松濤美術館でやっているアンティークレース展という興味深い広告を見つけたのだった。なぜこれを興味深いと感じたのかというのが今日の話の種となる。
最近陶芸で大皿を作ることが多いのだが、技法の一つにイッチンというものがある。この中にもいろいろやり方はあるのだが、細かい話を端折ると器に細いチューブから出した土や釉薬で模様や絵を描く技法だ。Instagramで検索してもらえればイメージが像を結ぶと思う。
この技法で自分の大皿に模様を描きたいのだが、肝心な想像力がない。それはつまり、イメージできるほど見たことも意識したことも無いということだ。悲しみを堪えて、良いものを見たいと思っていた矢先、上の広告にぶち当たったというわけだ。
自分がレースの展示を見に行くとは思いもしなかったし、陶芸は万物に通じる接点だなと再認識した。
展示についての感想は、レースの発展、歴史、ヨーロッパ文化など大変勉強になることばかりだったのだが、今は機械で作れるということに関心した。昔は職人がいて、伝統を守るために貴族が仕事を与えたり、フランス革命と共に廃れつつも、キリスト教の中で無垢として生き続け、今もウェディングドレスとして存在している。だが、今は機械が、もっと言えばソフトウェアが再現可能な技術となって枯れたのだ。素晴らしいかな、技術は価値と伝統を保存できるのだ。
さて、脱線したがこの話は今まででは気づきもしなかったことに、あるきっかけで意識が働き、突然在ると理解できるということだ。
友人が面白いことをブログに書いている。
デザインを見る目の解像度は
常に見て触れる対象を強く意識して見る必要がある。
こうして高められるとあるが、もう少し具体的に言えば知識が必要になるのではないだろうか。知らなければ現実世界はボヤけて、大枠でしか物事を捉えられなくなる。
試しに全く知らないアーティストの展示に行ってみてほしい、多分全く理解できないと思う。でもそれを見て、ほんの少し知ることで街に溢れた情報の解像度が少し増す。世界には意図がそこら中に転がっている。これは少し極端だが、作風やアーティストの背景を知っていれば何を訴えているのかがわかるし、気が付かなかった世界があちらから顔をみせる。
現実世界の解像度高めるには、何かのきっかけで知識を得てから(観測可能になってから)、それを注意深く観察していくことが大切なのだ。堅苦しい言い方をしてるが、要は知らないと見えないのだからまず知る、興味を持つことから始めないといけないということだ。
あなたが家で使うその器は本当にただの食器だろうか?