道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

そして僕らは何度でもアニメを見る

これは最近読んだ本の話。先週末に箱根行って読み始めた「ゴジラとエヴァンゲリオン」とその前に読んでいた「視覚文化超講義」の2冊の感想。 10月の一本目のブログ。

タイトルはこの2冊と最近のアニメ好きの行動をみて納得がいったこと。(釣りです)

最近のアニメでよくある 「ループやパラレルワールド」 (リゼロ、まどマギ、ハルヒなど他にもたくさんあるけど)の流れは、直接的ではないかもしれないが、エヴァやビューティフルドリーマーのような作品に影響を受け生まれている。そのエヴァやビューティフルドリーマーなどを作った庵野監督、押井監督といったおっさんたちはゴジラや戦争と核をテーマにした作品に影響を受けて作っている。僕たち(あえて僕たち)が今日アニメを見て熱狂しているのはいつか誰かが作った「普遍的な面白さ」「着想の良さ」「心地よさ」を焼き直されて、伝えやすくされているからにすぎないのだ。それ以外にも「神話」「オカルト」「暴力」などもみんな聖書や言い伝えなど過去の作品の影響だ。

人の心が動く仕組み、ドラマはそんなに変わってない。それをどう表現するかが変わっていくだけだから、僕らは何度でもアニメを見るんじゃないだろうか。合う合わない、感じ方が違う云々はあるけど、源流がほとんど変わってないよなって。僕らは作品をみるときにいつも「なぜ面白いか」言葉にして、それと「あれのようだった」的な共通点を探しがちだし。海外でウケるのは言葉や習慣を超えて人間に通じる感覚があるからだ。そういう価値観は見た作品が今後も影響し続ける(この辺は予想通りに不合理の話)ので、「見ない、見なくなる」以外は変わりようがないような感じ。アニメを作ってる人はアニメの影響を受けているんだもん。

これくらいにして、あとは本のメモ。タイトルに惹かれてしまってみたのなら、ここまでで閉じてもらって大丈夫です。

視覚文化超講義

視覚文化「超」講義

視覚文化「超」講義

はっきり言ってこの本は自分が読むにはまだ早かったかもしれない。笑 装丁とBack to the Futureの引きで買った。 視覚文化という 主語が大きすぎ るし、扱うサンプルの多さの割にそれぞれの引用されている情報はかなり薄いので、全て自分で補完しながら読み進める力が必要になる。講義資料?ってのもあってか、少し論文に近い気がした。ざっくり言うと論文には二種類あって(名前は正確に覚えてないけど)、一つは実験論文で何かやってみてその結果からどんな発見を得たかというもの。もう一つは調査論文で、ある分野における膨大な研究結果を俯瞰して傾向や流れをまとめているものである。俗に言う理系は前者、文系は後者が卒論や修論になることが多い気がする。この本は後者だった。

この本が読みにくかった部分を書いておく

巷の酷評はアマゾンだの読書メーターだの見てもらえるとわかる。笑 俺は内容はそんなに嫌いなわけじゃないけど、確かに読みにくい、理解する以前に論理があやふやになりやすかった。著者の思考の性格かもしれない。

  • 概念の説明に図がない

特に整理しながら話すときはやっぱ図が欲しい。文字→図→絵→写真→動画がわかりやすい順番だと思うので。 そういえばkindleがあるんだし、もっと動画を生かした電子書籍ないのかな。

  • 「意見」と「事象」が入り乱れている

「〜と考えます。〜と思います。」と「〜だ。〜である。」のような語調が入り乱れていたように思う。凡文を名文に変える技術とか理科系の作文技術とか読んで書き換えたらもっとわかりやすくなると思う。これが入り乱れると、どこからどこまでを文節とするのかわかりにくくて、全体像を脳内で補完できなくなってしまうんだよなぁ。

  • 言い回しが小説的で統一感がない(物語性と書いた後にナラティブと書くなど)

これは小説を書くときにはめっちゃ大切。同じ言葉を場面や感情で使い分けることで印象に残す技術だけど、複雑な説明文に使われると余計複雑に感じてしまう。本当にこういう小さいことを修正するだけで一気に読みやすくなると思う。

  • 例や引用がやや「わかっていない」言及があるかも

特に感じたのはTwitter、LINE、FacebookといったSNSサービスをどれも一緒にして考えていることの不思議さだった。これが批評家かと思う瞬間だった。SNS疲れを表現する上で考慮すべきでない違いだったかもしれないが、それぞれを沢山見て考えてきた側からすると、明らかに本質を捉えていないように思えた。それが本書全体の引用や意見に通じているとすれば、この本はただの思い込みを聞いていることになってしまう。その場合はなかなかつらい。もちろんしっかり調べて描かれていることもたくさんあるんだろうけど。

キーワードとして出た「エヴァ」

それでもこの本を読んでよかったのはエヴァはアニメで「特殊撮影の技法」を用いて表現されているということ、「ゴジラ」が源流であると知れたことだった。(P.202-204) なるほど確かに使徒が現れるシーン、エヴァの戦闘シーンは「ウルトラマンやゴジラを見る市民からの視点」で映されているシーンが多く取り入れられている。着ぐるみを着た昔のゴジラや今のウルトラマンはどこか「生きた重み」を持っている。それこそが特撮の持つ映像のリアルで人々を虜にしていた。エヴァはそれを見て育ったおっさんが作っているんだ。なるほどと思う瞬間だった。

タルコフスキー見なきゃ

この本にでた引用でわかるものとわからないものが半々くらいだった。批評家になりたいわけじゃないしなりたくないけど、理解して読むのとそうでないのでは感想も考えも変わるだろうと思う。もっと見てない作品を見てからまた読んでみようかな。特に押井守話でもでてきた「タルコフスキー」の作品は絶対に見る。

ゴジラとエヴァンゲリヲン

ゴジラとエヴァンゲリオン (新潮新書)

ゴジラとエヴァンゲリオン (新潮新書)

二冊目。こちらはめっちゃ面白かったので、印象に残ってる部分をメモ。

エヴァの発見の後、本屋にふらりと立ち寄ったときに見つけたのがこの本だった。すぐに買っていた。こういう出会い大好き。 そして、この本は今日のエヴァ、シン・ゴジラに至るまでのものづくりの経緯とその周辺を含めた映画業界の話だった。また、庵野監督への壮大なラブレターだった。(少なくとも俺はそう感じた)「ゴジラは、なぜ皇居を迂回したのか?エヴァは何度世界を破滅させるのか?」と帯に書いてあり、この辺の話をよく知らない人を惹くにはいいけど違う気がした。

「ヲタク達が若き頃に感じた思いは何度でも繰り返す。ゴジラとエヴァから見る、特撮とアニメの歴史」とかの方がいいんじゃないかな。新しいゴジラとエヴァはこの世の作品作りにおけるマンネリとその挑戦の物語だと俺は思う。辛辣な批判を含みつつも「SF物語」に魅了され続ける筆者の願いの本だと思う。そして、アニメとか映画とか今後生まれるいかなる作品はどれもこうした苦悩を乗り越えつつ、何度も良いものへとループしていくことが重要なのだと感じた。

円谷プロの円谷さんすごすぎ

新書本なのですぐ読めるから興味があれば買って読んで欲しいけど、今もたくさんの作品を生み出しているあの「円谷プロダクション」の創始者、円谷英二がすごすぎ。飛行機マニアで、カメラマンやってて空撮がうまかった。ここまではいい。戦時ってのもあるけどそのあと陸軍の飛行訓練学校で訓練して、単独操縦とアクロバット飛行ができていたらしい。笑

これはすごすぎ。そこで培った視点を映像に取り入れ、「特殊撮影」の技術を醸成していく。それがあのゴジラやウルトラマンを生んでゆく。つまりはマニアの趣味が作った作品だ。だからマニアがはまるのかもしれない。男は一つくらいハマるものがあるんじゃないだろうか。すごくかっこいい。好きこそ物の上手なれだな本当。

シン・ゴジラをみて「エヴァ」と感じたのは正しいが間違い

僕は完全にこれだったけど、この本を読んで逆だったのがわかった。最初に書いたけど、エヴァは全くもってゴジラの焼き直しだった。本当は逆だった。 特撮の技法、宇宙からくる怪獣、人間ドラマ、軍事兵器などなど、どれを取っても全部ゴジラが源流だった。どっぷりとはまっていた庵野は自分の作りたいものを作りたいように作った。それで人々に影響与えれるのかっこいい。

ループモノって最近の話じゃない

俺の中では最近の一番熱いループモノはもちろん「Re: ゼロから始める異世界生活」だ。それについては雑なブログ書いている。笑 アニメやラノベに限定して言えば他にも、エヴァ、まどマギ、ハルヒ、All You Need Is Kill、ひぐらし、時かけなどなどめちゃくちゃある。源流はもちろん、押井守のビューティフルドリーマーだろう。(面白いのは押井守の批判される作品、「天使のたまご」で庵野が作画もしていた話) 特にエヴァで騒がれているループ説は庵野の監督人生そのものを表しているんじゃないだろうかという話だった。庵野が作るゴジラはエヴァだし、庵野が作るエヴァはゴジラだし、何度も何度も繰り返し、作り続け、批判にさらされて、苦悩しながらもがき続ける。何かのインタビューでは

「これは僕の人生」

的なことを言っていたらしいし。カヲルは「また三番目」って言ってたし、月と海と大地は赤いし、あの世界はループしてて、監督もループしてるんだろう。ループは終わりがないように感じる一方で「その先の未来」を暗に意識させる効果がある。なんだかやはり人生っぽい。

宮崎駿と庵野秀明

宮崎駿と庵野秀明の関係はもはや有名すぎるけど、お互いにいがみ合っていた師弟だ。宮崎は「暴力的で性的で残酷な表現」が多い庵野を過激に批判していた。一方で庵野も「禁欲的、家庭的な表現」が多い宮崎を批判した。けれど「風立ちぬ」では主役の声優を庵野に任せるなど、心のうちでは認めているのだろう。人間性と作品の良さは関係ないし、表現は自由だし。それにどちらもとんでもない良い作品を作るのは変わらないし、そういう師弟関係は本当に羨ましいなぁと感じる。

筆者はSFオタク

円谷英二も庵野秀明も宮崎駿も筆者もみんなオタクだ。何かにはまってしまうタイプ。飛行機、ミリタリー、ロリ、ゴジラなどなど対象はそれぞれだしなんでもいい。筆者は膨大なインプットを一つ一つつなぎ合わせてこの本を書いている。SF関連や映画についての調査は半端じゃない。読めば「只者じゃないな」って思う量。特に言及はされていないが目次の一つに「メカゴジラはエヴァの夢を見るか」というのがあった。これはもちろんこの前読んだ「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」のパロディだ。内容は目次にほぼ関係ない内容なので、もはやこれ自体にほとんど意味はない。けれどオタクのやることはそういうことだ。自分の作品は自分の趣味嗜好を反映しないと気が済まないんだ。そして「わかる」人とニヤニヤするのが楽しいんだ。それが突きつけたらエヴァのように社会現象にだってなる。アイドルとかも同じだろう。オタクのおっさんが作ってる。

アンドロイドとは

Androidつながりで妙に反応したってものあるけど、このブログを読んでる人はロボットとサイボーグとアンドロイドの違いがわかるだろうか。 俺は知らなかった。ロボットは純粋に機械だけで構成されているもののこと。サイボーグは生命体の一部が機械になっているもののこと。アンドロイドは機械だけだけど人型のロボットのこと。アンドロイドとはヴィリエドリラダンが「未來のイヴ」で用いた造語らしい。読んでみよう。

アニメにハプニングはない

これ結構好きなフレーズだったのだけど、実写映像とアニメの最大の違いって「ハプニングがない」ということ。 角田洋一郎の本では「バラエティはハプニングがあるから面白い」と書いていたのに納得したが、アニメにハプニングはない。(庵野作品の作画崩壊はハプニング?笑)つまりどういうことかというと、 アニメで描かれているものは全て、わざと描かれている ということ。だから面白い。

俺が 「君の名は。」 を何度も見るほどに面白いと思うのは何故かといえば、「わざと描いているものがこだわり抜いている」からだ。例えば、本を読まないとわからないさやちんのおねぇちゃんとか過去作品の描写をふんだんに盛り込んだところ(星、電車、雨、ユキちゃん先生、桜、電線、鉄塔などなどきりがない)とかそういう細部が憎い。人の感情の変化などもすべて色や線で、わざと描いている。「あの仕草がよかった」ってのはその仕草を絵で表現されているからわかる。アニメにたまたまはない。全てわざとそう思わせるように描いている。だから良い。それを探して、自分で理解して、感じれたらなんか嬉しい。これはアニメにしかない良さだと思う。

どちらの本も「オタク」について書いていて自身もまたオタクな人たちだ。著者も監督たちもみんな作品が好きでしょうがない。でも見た後の行動はぜんぜん違う。「批評する」生き方よりも庵野監督のように批評と鬱にさらされながら 「創り続ける」 生き方がいい。

ブログを書くこともまた一つだとは思っている。

僕らは何度でもアニメを見る。アニメじゃなくたって良い、ハマったものにひたすらハマる。そして感じたものをベースに何かを作る。伝え方が良くないとすぐに批判される。ときにはコピーだと笑われる。

ミサトは言った。

「行きなさいシンジくん!誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために!」

庵野監督は言った。

「本当のオリジナルは人生だけ」

ループはできない自分というオリジナルを創っていく。そんなことを感じた。